捨てる

洋の東西、宗教を問わず、巡礼というものがあります。

日本では四国のお遍路さんが有名ですが、その行為の本質は、何か特別な宗教的啓示を享けることにあるのではなく、いらなくなったものを捨てることにある、と聞いたことがあります。


このプロセスを、身体に当てはめると排泄に当たるでしょうか。


生きていく中で色々な出来事に出会い(食事)、その出来事(食べもの)から何らかの教訓・メリットを見いだし、取り入れ(消化吸収)、自分の理解、利用できる形に変え(合成)、その出来事自身には往ってもらう(排泄)。


私の場合ですと、私は身体的には便秘がちで、お腹にはセルライトも溜まっています(ゴメンナサイ!)。
出来事への対処法は、何か新しいモノを取り入れ、それを利用したりするのは割合好きですが、そこに必要以上に固執し、留まってしまうきらいはあるように思います。


一方、何かを理解したり自分のものにできていないことを、“消化(咀嚼)できていない”などという言い方をしますが、私とは逆にお腹を下しがちな方というのは、出来事に含まれる大事なエッセンス(栄養)を取り込み損ねがちではあるが(消化吸収障害)、その分執着は少ない…のでしょうか?

昨日、自分のお腹に内臓整体をしていて、そんなことを考えていました(ヒマですね~)。


“快食、快便”
ベタですが、生き方にも通じる大事な事なのかもしれませんね。


ちなみに四十九日というのは仏教特有の概念なのかは知りませんが、人が死んでからの四十九日間は、色々なスケジュールがあって、生きていた間のことをスクリーンを見ながら反省する研修があったり、生前お世話になった人にお礼参りに出かけたり…といったことをするそうです。

その中には“捨てる”というレッスンも含まれ、名誉やお金だとかに対し“自分のもの”という感覚をきれいさっぱり捨てて、手放して、はじめてあの世(彼岸)に辿り着けるのだそうです。




「     “やわらかな腹の瞑想”


 ~これまで一生かかってしがみついてきたものをここで解き放ちましょう。
  
  解き放って、やわらかなお腹の中に入りましょう。
  
  慈悲深いお腹の中に入りましょう。
  
  お腹の中にぎゅっと押し込めてきた悲しみや不信感、怒りをほぐしましょう。
  
  幾重にも幾重にもゆるめます。幾重にも幾重にも手放します。

  『余命一年…だとしたら―残された時間があと一年、と思って生きてみるとhttp://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=0limits-22&l=as2&o=9&a=4899760205』 スティーヴン・レヴァイン著 ヴォイス社刊より