くじかれた勇気


「15歳、男性。

高校入学後、野球部に入部した(中学時代は違うスポーツをやっていた)。練習以外にも自主トレを行うなど真面目にやっていたが、三ヵ月がたった頃、全体ランニングで自分が声を出す番が回ってきたときに声が出なくなる。キャッチボールをしても投げたボールはほとんどあさっての方向へ。

“どうしたんやろ、オレ??”

しばらくすると、練習中に心臓が異常にドキドキするようになった。さすがに心配になり、病院で心電図等の検査を受けるも“異常なし”。

半年後、野球部を退部。以後症状は出ていない。」

上記をお読みいただくと、彼がかなりのストレスを感じながら野球をやっていたことは読み取っていただけると思いますが、実はこれ、20数年前の私のことなんです(笑)。

私にとってかなりダークな時期のことなんで、極力思い出さないようにしてましたが、昨日、ある本を読み終えた途端に記憶が甦り、“パチッ”とパズルのピースがはまった気がしました。

当時の私は、それまでに感じたことのない劣等感を感じていました。自分でいうのもなんですが、それなりに真面目に努力していたと思います。それでも毎日が「何やってんねん!」と怒鳴られ失敗を繰り返す日々でした。

ただ、昨日気づいたのですが、私はある方面では、本人も気づかない水面下では大成功しているのです。それは私の声が出なくなるたび、暴投を繰り返すたび、野球そのものの能力では決して得られなかった“周囲の注目”を得ることでした(“負の注目”ではありましたが)。

誓って言いますが、私にそんな非建設的な手段を使って、注目を浴びようという自覚は全くなく、当時はかなり悩みました。


“オレ、才能ないんやろか?”

劣等感というのは不快な感情であり、それほど長く持ち続けることはできません。本当に覚えていないのですが、“野球そのものでは評価されへん”と勇気をくじかれた瞬間があったのだと思います。その瞬間、建設的な方向に向かっていた努力が、より手軽な非建設的な方向に向かったと推測されます(非行の誕生と根っこは同じだと思います)。

私が幼い頃に獲得したであろう信条体系(私が学んだアドラー心理学では“ライフスタイル”といい、10歳くらいまでには決定されるといわれてます:もちろんそれは変更可)では、充分にそのストレス・課題に対処できなかったのでしょう。

自分を正当化するわけありませんが、劣等感は誰にでもあり、それが勇気をもって建設的な方向に克服されれば偉大な業績にもなり得ますが、かつての私のように(病気を利用するなど)非建設的な方向に向かえば、人生は調和を失います。

もし今の私の前に、当時の私がクライアントとして現れたら、カウンセリングは必須になると思います。どういった目標設定をしていたかは覚えていませんが、目標を少し下げることをすすめ(より達成可能な)、より建設的な方向に向かうよう励ましてあげると思います。

心身症(ストレス、心因的要素によって起こる身体症状)はごく普通の人に、誰にでも起こり得ます。それも無意識が書いた巧妙なシナリオに則っているので、本人にはまず、原因が心にあると言う自覚がないものです。(軽い症状の場合、気づいて受け容れた瞬間に改善が始まることも多く、その場合は特にカウンセリングを必要としません)

 


「~劣等感は一般に弱さを示すもの、何か恥ずべきものと見なされているので、劣等感を隠そうとする傾向が強いのは当然です。実際、そうした隠蔽の努力は非常に大きなものである場合があり、当人は劣等感そのものの存在に気づかなくなってしまいます。

~この劣等感という普遍的な感情はそれ自体では責められるべきではありません。意味があるか価値があるかは、劣等感がどのように用いられるかにかかっています。」

人はなぜ神経症になるのか』A.アドラー著 岸見一郎訳 春秋社刊より